みどりのはじまり

昭和12(1937)年10月6日和歌山市関戸182番地に みどり幼稚園は、石黒つぎ子により「みどり幼稚舎」として創立されました。
石黒つぎ子は鹿児島県女子師範学校を卒業、小学校で教鞭をとったのち関西に移り 兵庫県聖使女学院に入学、ここを終えて東京阿佐ヶ谷次いで和歌山県田辺で幼児教育 にあたりますが、またキリスト教児童文学に心魂を傾けるようになりました。当時は 大阪聖バルナパ病院宗教部主任を務めるかたわら、JOBKより放送劇の発表や児童 劇・童話の創作活動を活発におこなっていましたが、和歌山で幼稚園を始めることと なったその経緯について、つぎ子は書き記しています。
《和歌山に移り住んで間もなく、私の家を小児マヒで肢体の自由をうばわれた、六才 位の男の子を、乳母車にのせた一婦人が訪れた。「B・Kの幼児の時間で先生のお話を、 親子ふたりで聞かせて、いただいていました。たったひとりの息子がこのような状態 です。親として、子どものために、一すじの幸福でもひろいあげてやりたいのです。 幸いに話すことはよくわかりますので先生のお話をぜひ聞かせてやって下さい」私は 答えた。「みだれ、もつれたお子さんの幸福の一すじでも、たぐりよせるお手伝いがで きるなら、よろこんで時間をさきましょう」私は不幸な子どもを、いだきよせるよう にしてお話をしてみた。手ごたえがある。冷凍の原野に、春の動く音がする。このよ うにして回を重ねるごとに、おかあさんは主人の働く銀行の同僚たちのお子さんや、 近隣の子どもたちを四人つれ、八人つれ、回を重ねるたびに人数はふくれていった。 (中略)そのうちだれというなく幼稚園、幼稚園と親しまれる。こうして、私は押し だされて、この道を選んだのだった。》(「わが園のあゆみ」より)

私宅前の松原にブランコをかけて、いすやオルガンは母親たちが持ち寄り始まった 幼稚園は昭和16(1941)年6月には現在地和歌浦(現在東高松3丁目)163番地に移転、 660㎡の借地に約100㎡の園舎を新築し、本格的な活動が始まることとなりました。つ ぎ子にとってこの幼稚舎は《ともすれば画一的になり、人間を鋳型にはめようとする 現代幼稚園のややともすれば、おちいりがちな弊害を排し一人一人の個性のほのかな る香りをも惜しみ見守り培いて育てようとする真摯な幼児愛への止むに止まれぬ衷情 の表現》(移転新築落成に際しての「園案内」より)であり、いよいよ幼児教育に正面 から取り組もうとする、教育者としての決意がうかがわれます。幼稚舎には、幼児の 保育を行う幼稚部とともに絵画・舞踊の指導を行う学童部が併設され、幼児教育のみ にとどまらぬ和歌山児童文化のひとつの拠点たらんとする情熱をも感じます。 第二次世界大戦が威をふるいはじめ、昭和19(1944)年戦時体制の必要にせまられて 保育園に切りかえられますが、連日の空襲警報のもとで市内幼稚園がほとんど閉鎖す るなか、本園はただひとつそのいぶきをつづけ(当時園児70名・教職員3名)、やがて 終戦をむかえました。

昭和20(1945)年「みどり幼稚園」と改称しますが、園舎・設備 等不十分のまま翌年4月には園児急増となり、父兄より園活動への側面からの援助をと の申し出により、PTA「みどり会」が結成されました。 その後教育活動は徐々に充実、昭和24(1949)年特殊科目として洋舞・絵画・英語各 科の指導が行われ、講師陣には法村康之(法村バレー団)・峠原敏夫(和歌山大学)等 の諸氏が参加、後に音楽科(ピアノ・ヴァイオリンの個人指導)・演劇科も増設され、 昭和26(1951)年日本映画社「日本ニュース」において才能保育として紹介されるとこ ろとなりました。本園教育が当時すでに、全国的にも注目すべき水準にあったことが 察せられます。この専門講師による指導は昭和34(1959)年の「みどり芸術クラブ」を 経て、現在のクラブ活動へと変遷してきました。

昭和20年代は、園児増加に対応するため園地の拡張と保育室・ホール等の建築とさ らにその建替・増築があいつぎます。昭和28(1953)年、西館(木造2階建、4保育室) を新築落成、また昭和26(1951)年より始まったスクールバスによる園児送迎は、県下 でその導入に先鞭をつけるものでした。

昭和30(1955)年3月28日 「学校法人みどり学園」の設立認可を受け、石黒つぎ子が みどり学園理事長・みどり幼稚園園長に就任、それまで個人立幼稚園として運営され てきた本園にとって、法人立幼稚園として新たな出発になりました。 昭和32(1957)年11月、創立20周年記念事業として童話集「きいろいふうせん」出版、 また12月には記念祭(式典・みどりまつり・バレー発表会)がおこなわれました。ま た同年園東隣接地を取得し、昭和35(1960)年10月に東館(RC造2階建、4保育室及 びみどり文庫室)新築落成、この当時の学園規模は、9保育室・遊戯室(ホール)他・ 2スクールバス、また園児280名・教職員14名と講師3名でした。

昭和33(1958)年には創立以来の卒園児数は2千名にのぼり、外廓団体として卒園生 父兄による「緑窓会」が結成される運びとなりました。園にあたっては、緑窓会を中 心とした卒園生父兄の力添えが折々の大きな支えとなるとともに、卒園後の父母と園 との絆がその後一層永く続くところとなりました。

みどりのこれまで

昭和37(1962)年1月、初代理事長・園長石黒つぎ子死去、同年3月後任理事長に石黒光幸が就任、園長に石黒園子が就任しました。同年12月には緑窓会が発起人となり、本園創始者として大きな足跡を遺したつぎ子の記念像が建立されました。
昭和41(1966)年1月創立30周年に向けての記念事業として、現本館(RC造地下1階地上4階建、1保育室・みどりコーナー(子ども応接室)・会議室・職員室・事務室・応接室・給食準備室・保健室・地下収納庫・屋上遊び場)が竣工、また昭和43(1968)年3月には創立30周年記念行事として創始者ゆかりの児童文学者諸氏(関英雄・小林純一・石橋達三・村上幸雄)による講演会、記念展示会とバザー、記念誌「三十年のあゆみ」の発行と記念歌「小鳥がうたう」他の発表録音が行われました。同年はさらに園北側および東側隣接地と建物を取得し保育室に改築、また翌年には正門横に小鳥小屋が造られます。
昭和43(1968)年10月機関紙「みどりだより」(第2号より「みどり」と改称)が創刊されました。“園長・会長日記”・園児のつぶやきを採録した“アラカルト”・“卒園児コーナー”・保育現場からの“園内研究”などのほか時々のニュース記事により、園活動を広く内外に紹介、現在まで年2回の刊行を継続しています。また同年10月には、幼稚園放送教育研究会和歌山県大会が本園を会場として開かれ、2年間の研究により公開保育と経過報告が行われました。
昭和45(1970)年9月、、園長・教務主任が台湾(中華民国)を訪問、台北市栄星幼稚園を見学し姉妹幼稚園となりました。
昭和48(1973)年5月、本園研究グループによる「思考の芽生えをつちかうための幼児の生活」が第22回読売教育賞県代表に選ばれました。また同年9月には、西館北側に並んで現西北館(RC造2階建)が竣工、年少・年中児のための4保育室が完成しました。

昭和50(1975)年10月、石黒光幸理事長・園長兼任となり、石黒園子は副園長となりました。
この年は、本園保育において新たな取り組みが始まった年でもありました。自閉的傾向を持つ園児との出会いがきっかけとなった障害児教育は、教諭達にとってほとんど未知の分野でしたが、当初より健常児との統合保育と位置づけて研究・実践を続け、昭和61(1986)年11月全国特殊教育研究連盟大会では本園を会場として10年間の実践報告と、全国でも初めての統合保育の公開をおこないました。また昭和62(1987)年には、保育ビデオ記録「マーちゃんがんばれ」がNHK厚生文化事業団心身障害福祉賞を受賞、全国放映されました。統合保育は障害児のみならず健常児の確かな成長をも導く本園教育の根幹となり現在に至っていますが、わが園にとって半世紀も前の出来事となった、小児マヒにおかされた子どもと創始者つぎ子との最初の出会いが想い出されずにはいられません。

昭和51(1976)年8月、創立40周年記念事業として、本館北側に現ホール(鉄骨ALC造2階建、ホール・雨天遊び場・粘土コーナー・たんぽぽ組室・運転部室他)が竣工、長年の懸案であったホールの完成により、学園規模は園地2350・、園舎1853・(たんぽぽ組室を含む16保育室とホール他)、3スクールバス、園児420名、教職員26名と講師4名となり、ほぼ現在に至る園の姿が整いました。また
昭和52(1977)年11月には40周年記念誌「四十年のあゆみ」と園児による口詩集「ぶらんこ」の発行、教職員による民話人形劇「投頭巾狐」の上演が行われました。そして創立より40余年を経て、昭和54(1979)年3月には成人のための第1回同窓会が開催されました。
昭和54(1979)年6月、みどり会活動のひとつとして、母親相互の親睦を目的にクラブ活動がはじまります。これは昭和30年頃より続いていた(当時「ラララ会」)お母さんコーラスを基に組織されたもので、昭和60(1985)年には8クラブの「みどり会お母さんクラブ」となり、子育てに追われともすれば家庭にこもりがちなお母さん達の交友の場として、現在も幼稚園の内外で活発な活動を続けています。また2年後にはこれらの活動への助成を目的に、みどり会により「みどり基金」が創設されました。
昭和58(1983)年、10年を費やした本園教育課程及び指導計画の見直しがまとめられました。これは、研究当初一部で盛んに行われていたことばや文字・数への誘導的指導とは方向を異にする、「子どもの遊び」に活動内容の主眼をおいた保育研究・実践のひとつのまとめでした。

昭和61(1986)年4月、石黒光幸は理事長専任となり、前年より副園長職にあった山本喜美子が第4代園長に就任しました。創立50周年を迎え、同年6月より11月にかけて種々の記念事業が行われました。保育実践書「小さな科学者とともに」の出版、絵本作家まついのりこ氏(第2回卒園生)を迎えての園児の「お祝い会」、記念同窓会、「パントマイムショー」、お母さんクラブによる記念リサイタル、記念曲「きいろいふうせん」と記念頌歌の発表録音、そして記念式典では本園ゆかりの多くの人々より祝福を受け、次の半世紀にむけての出発となりました。
平成2(1990)年4月、本園美術教育の成果に対して第22回川端龍子賞が贈られました。また本園教育の一翼を担うクラブ活動の充実をめざし、同年より従来の4科(音楽・モダンダンス・体育・美術)に加え新たに自然・ことばの2科を増設、クラブ再出発の年となりました。また同年より実施となった幼稚園教育指導要領の改訂を受け、本園では今後の保育の指針とする教育課程の再編成を行うべく、教諭陣による研究作業が進められています。
戦後増加の一途をたどってきた就園児数は、昭和50年頃を境として一転し減少へと向かいます。現在までこの趨勢は変わりませんが、本園にあっては一時園児数減少の傾向が見られたものの、教職員一致協力しよく園活動の充実に努め、昭和62年頃より再び園児応募増加の兆しが現れたため、保育環境の一層の充実をめざした施設拡充計画が立案されました。これに基づき平成2(1990)年園東南隣接地を取得、また建物を改築し当面保育室他として使用する事になりました。
平成7(1995)年6月、山本喜美子は園長を辞任し、同年7月宮本マリ子が第5代園長に就任しました。

みどりのこれから

立60周年を迎えた平成9(1997)年、長年検討を続けてきた施設拡充計画がようやくまとまりました。本園は現在地に園舎を構えた昭和16年以来、増築や改築をくり返してきましたが、このたびの園舎改築はすべての園舎を一度に建て替えるという、まことに大きな記念事業となりました。
平成10(1998)年3月に竣工した新園舎(延床面積1921・)には、これからの本園教育を実践していくため、さまざまな配慮がなされています。 子どもたちの命と健康を守るため、まず耐震・耐火・衛生に関して充分な心配りをしています。さらに「オープンな環境」を設計方針とし、ときにはクラス・学年の隔てを越える「子どもたちの育ちあい」をねらいとするオープン保育室やみどりコーナー(食事室)など、今までにない新しい園舎が生まれました。また、相次ぐ増改築で不整形となっていた園庭もまとまり、明るく広い幼稚園となりました。同年12月にはさらに園東南隣地を買収し、園地は2810・に拡がりました。
平成11年(1999)年3月、宮本マリ子は園長を辞任し、同年4月石黒悦子が第6代園長に就任しました。

平成12年(2000)年12月園地東南隣接地が、安全な乗降確保のため園地隣接スクールバス等駐車場として整地整備されました。
発足より58年を経たPTA「みどり会」は平成16(2004)年11月、私立幼稚園では初の優良PTA文部科学大臣表彰を受けました。長年にわたる活動内容が認められた嬉しい表彰となりました。遊びや運動・自然観察の場の充実のため平成19(2007)年1月、園地東南隣接地を買収し、子ども運動場・農園を設けました。

平成19(2007)年創立70周年を記念し8月より10月にかけて記念事業が行われました。球形のタイムカプセルに30年後の100周年に向けたメッセージを詰め園庭に設置、園者改築総塗替、制作全員参加の絵本「ぐんぐんぐんとのびようね」の出版、子どもと祝う記念式典には多くの方々の参加をいただき、喜びを共にしました。

平成28(2016)年8月、翌年に迎える創立80周年記念事業の一環として園舎屋根を一新する耐震軽量瓦葺替工事と共にソーラー発電システムを設置し、子どもたちの中にエコ意識と環境保全意識が芽生える機会となるよう願いを込めました。

平成29(2017)年10月、創立80周年を迎え記念事業として、みどり幼稚園が特に大事にしてきた“遊び”“活動”についての研究書「心の根っこ、おおきくなあれ」の出版、合わせて記念式典「子どもと祝う会」が開催され、ご縁の深い多くの方々のご出席をいただきました。

令和元年(2019)年4月、みどり幼稚園は「建学の精神と教育」を未来に向けて変わらず守り続けるため、幼保連携型認定こども園に移行しました。時代の変化の中、子育て・仕事の両立を目指す国の方針に沿い、幼稚園と保育園の両方の機能を併せ持つ幼稚園となりました。

令和(2020)年・令和(2021)年・令和(2022)年は、世界的な新型コロナウイルス感染拡大のため、 これまでの教育保育のあり方や行事内容を大幅に変更し、感染防止に努める年となり ました。

80余年の歩みをふり返ると、本当にさまざまな事がありました。しかし、時が移り 園の風景が変わり続けてなお、みどり幼稚園がいつの時代も「みどり」であり続けて いるのは、やはり創立者のみどりへの思い・教育の精神が、今も人々の心や園の片隅 に、確かに息づいているからなのでしょうか。 過ぎし日を想い先人を偲びつつ、本園のあらたな歩みをはじめたいと思います。